麻の歴史

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UPDATE 2022-10-20

麻は、フラックス(flachs 亜麻 [あま])、ヘンプ(hemp 大麻 [たいま])、ラミー(ramie 苧麻 [ちょま]、苧 [からむし])、ジュート(jute 綱麻 [つなそ]、黄麻 [おうま])など多数派のものがありますが、品質にすぐれ歴史上もっとも重要なものは亜麻です。亜麻は、4,000~5,000年前頃からエジプトやメソポタミアで栽培され、特にエジプトでは14世紀末まで世界一の生産量を誇りました。エジプトのミイラが亜麻布で包まれていることはよく知られていますが、漂泊した純白の亜麻の衣服は当時の王や貴族の衣服に用いられました。

8世紀に地中海にイスラム国家ができると、亜麻はサラセン人によってシチリア島に伝えられイタリア、スペインを経てヨーロッパ全域に広がりました。ライン川の河口に近いオランダ、ベルギーは、その交易の中心地になるとともに主要な生産地としても栄えました。産業革命により綿製品が主流となるまでは、ヨーロッパの基本繊維は亜麻で、下着をはじめシーツ、枕カバーなどすべてに用いられました。現在、リンネル(仏liniere)またはリネン(英linen、独Linnen)と呼ばれているのは、亜麻の薄地織物のことです。

日本でも縄文時代から麻が用いられていたようですが、その種類は苧麻と大麻です。それらは、飛鳥時代にはすでに衣料として貴族から庶民にいたるまで広く利用されていました。中世になると苧麻の栽培の方が多くなりましたが、その主要産地は信濃、越後で、江戸時代には越後上布、越後縮が名産となりました。なお、大麻の花や葉から作られる麻薬がマリファナであり、麻酔という語はこれからきています。

 

社団法人繊維学会『やさしい繊維の基礎知識』(日刊工業新聞社、2013)

綿の歴史

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UPDATE 2022-10-20

綿は、古代インドのインダス川流域(現パキスタン)のモヘンジョダロ遺跡および南米のペルーで、いずれも4,500~5,000年前頃から栽培されています。これらの原種は、インド産が大きな染色体をもつ2倍体(AA)であるのに対し、ペルー産は小さな染色体をもつ2倍体(DD)です。ちなみに、綿花は一般に白色ですが、ペルー産のものには赤、橙、黄、緑、紫など種々の色の綿花があり、古代インカの美しい色彩豊かな織物は、これらの綿花を用いていたからです。

紀元前327年にアレクサンダー大王のインド遠征によって、インド産の美しい綿織物がアラビアやヨーロッパにもたらされました。同時に、綿の栽培もエジプトで行われました。2世紀頃には、綿栽培はアラビア商人によってヨーロッパにも伝えられましたが、綿が熱帯産であることからその北限は北緯40°で地中海に面した半島や島々まででした。

一方、南米産の綿はコロンブスの新大陸発見によってヨーロッパにも知られるようになるとともに、いつしか旧大陸の綿との交雑が生じ4倍体(AADD)の新種が誕生しました。この新種は、従来のものに比べて繊維長が約2倍で地毛が少ないというすぐれた品質であったため、急速に北米南部および南米北部に広まり、18~19世紀には旧大陸でも栽培されるようになりました。

これら新種のうち南米北部原産のものは、新大陸では西インド諸島にも移植されましたので海島綿(Sea Island cotton)と呼ばれ、旧大陸に移植されたものはエジプト綿と呼ばれました。

また、中米原産のものは、陸地綿(American Upland cotton)と呼ばれアメリカの主要品種となりました。すなわち、19世紀中頃にはアメリカ南部は「綿花王国」と呼ばれ、イギリスで生産される機械綿布の原料の75~80%を占めました。しかし、その陰には黒人奴隷の苛酷な重労働があったのです。

日本で、木綿製品が朝鮮から多量に輸入されるようになったのは室町時代で、木綿が本格的に栽培されるようになるのは15世紀中頃であったとされています。16世紀後半には生産量が増大し一般庶民も使用できるようになりました。明治以降、日本は紡績機械の導入により綿布の大規模な生産体制が整い、飛躍的な発展を遂げることになります。

 

社団法人繊維学会『やさしい繊維の基礎知識』(日刊工業新聞社、2013)